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更新日:2018年8月31日

ありがとうと言える子どもを育てる
・生きもののいのちをいただくなど、生かされているいのちであることに感謝する
時折、「自分の人生は、いったいあとどれくらい残っているんだろう」と思ったりすることはありませんか。医学的には、人間は百二十歳くらいまでは生きることが可能なのだそうです。そう聞くと、「だったら、電化製品みたいに…、例えば百年とかの保証期間とかあればいいのに!」と、思ったりもします。けれども、誰もそのような保証を受けることは出来ませんし、しかも私の死因は既に「生まれた」ということにあるのですから、その結果である「死」が「いつ私の上に訪れても不思議でも何でもない」というのが私の身の事実です。
時折、「今朝、目が覚めたとき嬉しかったですか…」と尋ねると、「はい!」と答える人は、誰もいません。そして、不思議そうな顔で「今日は何の日ですか」と問い返されたりします。なぜ、私たちは朝目が覚めた時に「今日も生きてる~!」と言って、叫んだり喜んだりしないのでしょうか。それはきっと、誰もが無意識の内に「朝目が覚めることは当たり前だ」と思っているからに他なりません。でも、それは本当に「当たり前のこと」なのでしょうか。
今朝目が覚めたのは、決して「当たり前」のことではなく、既に「生まれた」という原因がある以上、その結果として当然「死ぬべき」はずである私が、「たまたま今朝目が覚めたと」いうのが、その内実です。ところが、なかなかそうは自覚し得ないのが現状です。
そのため、私たちは「私の人生は、あとどれだけ残っているんだろう」という『引き算』で人生をとらえてしまうことになるのです。確かに、保証期間とかあれば、そのように考えることもあながち間違いとだはいえませんが、私のいのちの事実からすると、「今朝目が覚めた。また今日も新たないのちを頂いた」と、『足し算』で受け止めるべきなのではないでしょうか。だから、この一日一日の積み重ねが、まさに私の人生になっていくのです。
ところで、私のいのちは「私のもの」だと錯覚している人が少なからず見られます。私のいのちは、果てして「私のもの」なのでしょうか。例えば、私が公金を自分の財布に入れて持ち歩いているとします。私の財布に入っているのですから、私が思うように使えるかというと、それはできません。もしそのようなことをすれば、私は公金横領の罪に問われます。自分の財布に入っていても思い通りに使えなければ「私のもの」とは言えません。私が、自分の思い通りに使えてこそ、そのお金は「私のものだ」と言い得るのです。
そうすると、私のいのちは、私の思い通りになっているでしょうか。生まれる時から性別をはじめ、時代、環境、性格、能力など、何一つ「思い通り」ではありませんし、嫌でも歳を重ね、病に苦しみ、いつかは分かりませんが最後には必ず死んでしまいます。
では「いのち」とは何でしょうか。「いのち」とは、多くの「願いの結晶」だと言えます。私は、生きるために多くのいのちを頂いて生きています。そうすると、そこにはこのいのちを無駄にしない生き方が、頂いた多くのいのちから願われているのではないでしょうか。感謝の心とは、その「いのちの願い」に気付くところから生まれてくる心だと思います。