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更新日:2018年5月2日

阿弥陀さまをおがむ子どもを育てる
・阿弥陀さまはいつでもどこでもそばにいてくださることを知る
ある園での降園時のことです。先生が子ども達に「(保育室内の)阿弥陀さまに、さよならを言いましょう」と声かけしたところ、ある園児が次のようなことを問いかけました。「どうして阿弥陀さまは、いつでもどこでもそばにいてくれるのに、さよならを言わなければならないの」と。日頃、子どもたちは『幼児のおつとめ』の中の「奉讃文」にある「みほとけさま! いつでもどこでも そばにいてくださって ありがとうございます」という言葉を耳にしています。
その子にしてみれば、阿弥陀さまはいつでもどこでも自分のそばにいて下さるのですから、園の中でも、家に帰る途中でも、家に帰り着いてからも、ずっとそばに居てくださるはずです。にもかかわらず、先生は「阿弥陀さまにさよならを言おうね」と声かけしているのですから、思わず「どうして…」と問わずにはおれなかったのでしょう。
実は、阿弥陀さまという仏さまは、本来「色もなく形もなく、言葉で言い表すことも思いはかることもできない」存在です。そのため、私たちには自分の力で阿弥陀さまを知ることはできません。では、「いったい誰がその存在を知り得たのか」と言うと、お釈迦さまです。お釈迦さまは一般に「仏陀(目覚めた人、悟った人)」と呼ばれますが、何に目覚められたのか、何を悟られたのかというと、真実なる存在が自ら「南無阿弥陀仏」と名のり、私たちにはたらきかけて下さっている事実があることを悟られたのです。
そうすると、私たちはなぜ阿弥陀さまの木像や絵像を礼拝の対象としているのでしょうか。例えば、子ども達に空に浮かぶ月を教えようとする場合、月を指さして「ほら、あれが月だよ」という言葉を添えます。この時、子ども達は指だけをさし示されてもそれが何を意味しているのか説明がなければ何のことか分かりませんし、言葉だけで「あれが月だよ」と教えられてもどこを見てよいのか分かりません。正しく月をさし示す指があり、「あれが月だよ」という言葉が語りかけられることによって、初めて子ども達は月を知ることができるのです。
私たちが日頃目にしている木像や絵像の阿弥陀さまのお姿は、この月をさす指と同じ役割を果たしているのだと言えます。したがって、その働きを象徴的に表した阿弥陀さまのお姿を目にし、教えを聞くことを通して、初めて私たちはその願いについて知ることができるのです。
どれほど懸命に阿弥陀さまを拝んだとしても、そこに「教えを聞く」ということがなければ、それは単に「指を見ているだけ」に終わってしまうと言わざるを得ません。そこで、園では仏参の中で、子どもたちに法話(阿弥陀さまのお話)をしているのです。
「どうして…」と先生に問いかけた園児は、日頃阿弥陀さまについてのお話を聞く中で、月を見ることができたのかもしれませんね。例えば、「お母さん」と口にすると、目を閉じていてもそこにお母さんを感じることが出来るように、その子にとっては、園でも、家でも、いつでもどこでも「南無阿弥陀仏」と口にすると、そこに阿弥陀さまが一緒にいて下さると感じられるのでしょう。
同様に、阿弥陀さまは、いつでも、どこでも、あなたのそばにいて下さいます。